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父の一周忌を迎え、父の死に立ち会った時のことを振り返る

父の一周忌を迎え、父の死に立ち会った時のことを振り返る

本日、父の命日に一周忌の法要を行いました。
お葬式、四十九日、お盆と3回にわたりお世話になったお坊さんに家に来てもらい、念仏をあげてもらいました。
お墓(樹木葬)の契約も無事に済み、今年中には納骨も出来る予定です。

今回は父の死に立ち会ったときのことを書きます。
少し暗い部分もあるので、苦手な方はスルーしてくださいね😓

父の死(経緯)

10月5日、心臓の違和感を覚え、自分で車を運転し病院へ行き、そのまま集中治療室にて手術。
手術中に心不全を起こしたものの、術後は順調に回復。
10月19日に退院を予定しながら、退院前にもう1度手術を行った結果、術後に心不全を起こし、機械で延命措置を受ける状態になりました。

何も知らなかった母

母には、父の入院・手術のことを伏せていました。
というのも、母自身も入院していたからです。

母の当時の状況

8月13日、双極性障害の躁状態が一気に切れ、床に何日も寝込み、深刻な褥瘡ができる。
救急車にて家の近くの大学病院へ搬送。
集中治療室に入り、一命を取り留めました。
9月12日、遠くの閉鎖病棟へ転院。
閉鎖病棟の様子はこちら

その一週間後、祖母(母の母)が死亡。
当時寝たきりだったこともあり、葬儀に参列できず。
僕と父で参列し、その後のお見舞いにて祖母の死を伝える。

こういった状況だったので、突然だった父の入院は
「俺はすぐに退院する。これ以上余計な心配させるな。」
という父の希望もあり、母には伝えませんでした。

父の死(看取り)

10月18日、容態が悪化したという連絡を受け、職場から病院へ駆けつけると、機械で延命措置を受ける父がいました。
心臓マッサージと電気ショックを何度も受け、
胸には内出血のような跡があり、顔色は少しどす黒く、
機械に繋がれた父の姿は痛々しかった
と記憶しています。
機械で生かされていた父に、意識ありませんでした。

「退院目前だったのになぜ?」
病室で状況を理解できずにいると、医師・看護師が退室し、父と二人だけにしてくれました。
二人だけになると取り乱してしまい、泣き叫んでしまいました。
目が少し開いた!ちょっと指が動いた!
そんなことは全くなく、なんのリアクションもありません。

少し落ち着き、ナースステーションへ行くと、別室で医師から説明を受けました。
医師からは「死」というハッキリした言葉は出てこず
「仕方なかった。」
「いつ機械を止めるか?」

という趣旨の話ばかりでした。

「ゼロに等しいのはわかっている。でも、万が一の可能性はないのか?
あるならそれをやって欲しい。」

僕は僕で、そればかり言っていた気がします。
ハッキリしないながらも、後ろ向きな単語を並べる回答に、次第に希望がないことを受け入れざるを得なくなりました。

母への連絡

・もう万が一にも助かる可能性はない。
・延命措置はいつまで持つかわからない。
・意識はないが、早く止めてあげた方が父にとってはいいのではないか。

ここまで理解した後、母にどう告げるか悩みました。
入院していたことすら知らない母に、この状況を伝えるのはすごく辛いことでした。
・すぐ止めて楽にしてあげて。
・死に目に会いたい。

母がどちらを希望するかわからなかったので、まずは母の入院先に事情を説明し、
希望があれば母を一時退院させて欲しいと訴えました。

22時を過ぎていたと思います。
母のいる病院と、父のいる病院は車で約1時間の距離でしたが関係ありません。
夜勤担当の新人看護師の対応は、今思い出しても酷いものでしたが、
何度も状況を説明し、希望があれば退院できるよう許可をもらい、母に電話を代わってもらいました。

「父が死ぬ。」
という言葉を発することも、
それを何も知らない母に告げるのも想像以上に辛く、
(母のが辛いんだから、自分は泣いちゃダメだ。)
と思っていたのに、涙と嗚咽が抑えられませんでした。

なんとか説明し、
「早く楽にしてあげて。」
という言葉をもらい、電話を切りました。

決断

病室に戻り、すぐに機械を止めて欲しいと医師に伝えようとしました。
しかし、今は仮にも生きているのに、
そう告げることで本当に死んでしまう。
万が一の奇跡も、これでもう本当に起こらなくなってしまう。
最後に奇跡にすがりたくなってしまいましたが、
母の言葉を思い出し、
「止めてください。」
と医師に告げ、10月18日23:34に死亡しました。
父の68歳の誕生日の前日でした。

駆け抜けてきた一年。長く感じた

葬儀は残された人の為にやる。
とはよく言ったもので、父の死後は休む暇なく、
葬儀の手配やら、親族への連絡に追われたことで、
悲しみに暮れることなく走り続けられました。

葬儀後も、
・四十九日
彼氏と母の顔合わせ
脱サラの決断
母の退院準備
・実家の片付け
・簡易引越し
母との生活、彼氏との半同棲生活スタート
彼氏、母との同棲生活スタート
脱サラ、最終出勤日
新盆
・脱サラ後の仕事探し
と続きました。
(青字をクリックすると、その様子を書いたブログに飛びます!)

「もう一年か、あっという間だった。」
という言葉をよく聞きますが、この一年に限って言えば、
「まだ一年しか経ってないのか。」
と思う、人生の中で一番濃く、変化の多い、長い一年でした。

今思うこと

父が死んで生活が一変。
今は大好きな彼氏と、放っておけない母と3人で暮らしています。
現状で言えば、定職につかず、なんちゃってフリーランス状態ですが、平和に暮らしています。

それもこれも、
・僕と彼氏を認めてくれる母
・母と無職になった僕を受け入れてくれる彼氏

そして、
・贅沢をせず、家とお金を残してくれた父

という、家族が与えてくれたものです。

今の生活で、母に対してネガティブな感情になることが多々ありますが、
父の死を体験したことで、生きているうちに後悔しないように接したいという気持ちが芽生え、
なんとか生活できている部分があります。
うまく言えないんですが、母が死んでしまう想像をして、それを思えばこんなイライラ屁でもない!と怒りを抑えるイメージです😰

これから、段々と父のことを忘れ、母へのネガティブな気持ちも膨らんでいくかもしれません。
そんな時は今日のブログを読み返したいと思います。

長文になりましたが、読んでいただきありがとうございました。